一度、見てみたかった
「蜘蛛の子を散らすように」・・・何かの目的で集まっていた人たちが、いきなり慌てふためいて逃げ散るありさまを例えていうことがあります。ところが私は、クモの子が逃げる様子はどんな風かを見たことがありません。
出会えた 蜘蛛の赤ちゃんたち
もうすぐ梅雨入りかという頃のある日、子犬と一緒に近くの公園に行くと、その日も、ちょっとした広がりは子犬と私の貸し切りでした。この頃の子供たちはあまり外に出ないようです。
広場の奥まったところに一本の常緑樹があって風に吹かれていましたが、その葉の一部の揺れ方が周囲とは違っているのが目に留まり、目を凝らすと、つぶつぶした小さなものが黒い団子状に集まって宙にうごめいています。
クモの赤ちゃんたち! 卵嚢からこぼれ出たばかり!
黒い団子は、親が作ったものらしい網に絡まっていましたが、よく見ると、その網が逆光に透き通って見えるあたりに、赤ちゃんの一部はすでに最初の脱皮を終えたらしく、透明な抜け殻がたくさんこびり付いています。卵嚢から出たばかりとは言え、そのくらいの時間は経っているようでした。
蜘蛛の子を散らすように・・・?
一度この目で確かめたいと思っていました。
カメラを片手に構えておいて、もう一方の手に握った杖の先で・・・軽くエイ!
すると瞬時に・・・四方八方にわらわらと散り、そして暫くするとてんでんに戻って来ます。
言われている通り! 納得です。
独立した蜘蛛の子たち
次の日、細い竹の棒と子犬とまた公園に行きました。
竹の棒の先には両面テープで一円玉を張り付けてあります。一円玉と比較することで、クモの子のサイズを分かり易くしようと考えたからです。
と、前の日に在ったつぶつぶの黒い団子は消えてしまっており、その代わりに周囲の葉と葉をつないで可愛らしい華奢な蜘蛛の巣が五つ六つ見付かりました。それぞれの巣の中央にはクモの子らしいものが乗っています。ゴマ粒ほどの大きさとはいえ、昨日よりは一回り大きくなっています。半分透き通っているようでした。
片目でファインダーを覗きながら片手で一円玉を近づけようとするから、距離感が怪しくなります。一円玉がうっかり巣に触れてしまうと、あっという間にクモの子は視界から外れて何処かへ消えてしまいます。おそらく垂直に落下しているのでしょうが、はっきりしません。前の日にも驚かされましたが、一日のうちにクモの子たちは更に素早くなっているようでした。
一晩のうちに、クモの子たちは集団を解いて独立したものに違いありません。
細い糸を使って頼り無げとは言え、そこそこの赤ん坊のうちに一人前の形をした巣を作り上げるとは驚くべきことです。蜘蛛が作り出す糸は鋼線よりも強いのだそうですが、一人歩きを始めたばかりの赤ん坊がそんなものを作れるのです。
可愛らしい職人の大きさを一円玉と比べて見てください。
大人になれるのはどれだけ?
一つの卵嚢から数え切れないほど多くの子蜘蛛が生まれ出て、それらがことごとく大人になってしまったら、この世は蜘蛛だらけになってしまうに違いありますまい。夏を越え、秋を迎え、その秋も深まり、堂々たる女郎蜘蛛・・・勝手にジョロウグモと決めてかかっているのですが・・・堂々たる母蜘蛛になって、あっぱれ沢山の子を残すことが出来るのは、運に恵まれたほんの数匹であるに違いありません。
頑張れ!! 蜘蛛の子たち。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。
蜘蛛の子を散らすのは悪戯心をくすぐられたものですが、加減をするよう寡黙な祖父に窘められた記憶があります。(かなりのやんちゃ坊主でしたから)
どちらかといえば、小さかった自分にとって怖かった祖父。無益な殺生には厳しかったですから、優しい人だったのかもしれません。もっと沢山話しておけばよかったけれど、気が付くことができて、何だかとても懐かしい気持ちになりました。
こんにちは。
ありがとうございました。
「・・・加減をするよう」とご祖父に諭されたのですから、「蜘蛛の子を散らす」は何度も!
なるほど、かなりのやんちゃ坊主でしたね。ご祖父が言われている通り、クモは人にとっては益虫であることが多いのでしょうね。
家に住んでいる小さなクモを、妻が何時も気持ち悪がりますが、「ダニを食べてくれるから」と私はかばうことがあります。
ご祖父は優しい人だったに違いありません。
これからも、どうぞ、やんちゃでお過ごしください。