人なつこい? ウラギンシジミ


熱中症の危険より・・・食い気

 今年(2024)の9月19日(木)、連日の酷い残暑を食い気で乗り切ろうというわけで、私はベランダで豚肉の一塊に煙を掛けてチャーシューに変えてやろうと目論んでいました。

 ふと気付くと、漬け汁の臭いに誘われたのか、燻製鍋の近くに置いたペーパータオルに1頭の小型のチョウがやって来ています。
 翅の裏が、アクリールガッシュ絵具を一刷毛で塗り上げたように、一面に鈍い白色をしていました。…私のうろ憶えによると、この手のチョウはウラギンシジミかヒメシロチョウのどちらかであるはずです。

ヒメシロチョウだったら大変なこと!

 これがヒメシロチョウだったら大変!
 ヒメシロチョウは、かなり前から都道府県の多くで絶滅危惧種も高いところに指定されており、東京都のレッドデータブックでも、例えば八王子市ではここ70年間以上も観察記録がないという希少種。河川敷などの草地が一度に広範囲が機械刈りされてしまうなどのことが生息域を狭めてしまったのだそうで、シロチョウの仲間内でもとりわけハタハタと儚げに飛ぶのだそうです。
 
 カメラを持ちに行って戻って来ても、お客さんは残っていましたから、先ずは1枚。邪魔なステンレスのトングをそっと取り除けても、そのままで居たので2枚目。

 背景がペーパータオルの白のうえに逆光なので、反対側に廻って撮り直そうと腰を浮かすと…飛び立って、ベランダの縁に置いた鉢の上で数回ホッピングしてから行ってしまいました。

ヒメシロチョウは幻 やはりウラギンシジミだった

 写真を見直すと、これは間違いなく、残念ながら、ウラギンシジミ。
 前翅の先端が鋭角に突き出しており、後翅の下縁も少し角張り気味。さらに裏面の一面の銀白色(「裏銀」が名前の由来)が、ブラックペッパーを振りかけた厚手の布を見るように丈夫そうだというのも特徴。
 大きさ19〜27mmでシジミ科最大。頑丈そうに見えるのにふさわしく、花の蜜をはじめ様々のものを求めて元気に飛び回り、幼虫がクズの葉を食べることから、最近増えつつあるのではないかとのこと。なるほど、クズがこのところ、ちょっとした林などは押しつぶさんばかりに独り勝ちにはびこっている様子は気味が悪いほどであるので、ウラギンシジミが増えつつあるというのは頷けることです。

好奇心いっぱい 可愛らしい

 それから3週間ばかりが経った10月13日(日)に、私は子犬を車に乗せて多摩川に行きました。秋になると、土手の斜面に機械が入って雑草が刈り取られているのが例年のことですが、この年は街の真ん中、それも市役所付近の街路樹の枝が落下して死者が出るという不幸な事故があり、そのために危険と思われる街路樹の伐採という喫緊の仕事が優先されて、やむを得ず、河川敷の手入れは後回しとなったようでした。
 私は自分と子犬が川に抜けられるだけの幅を細々と刈り取ろうとしました。このまま冬になると、雑草の種子がヒッツキムシになってワンコに取り付いてしまってドタバタするのを避けたいと思ったからです。

 気が付くと、とりあえず地面に投げ出しておいたカメラに、ウラギンシジミが止まっていました。翅がわずかに開き気味で、翅表のオレンジ色が窺えました。

・・・あらためて、私がカメラをいかに乱雑に扱っているのが分かってびっくりものです。雨に当たったり、落としたり、こすったり、埃だらけ、傷だらけ。それでも奇跡的に壊れません・・・。
 そんな私のカメラの何が気になるのかな? いくらなんでも、おかしな臭いまではしないと思うのだけど。

 ダイヤルやらファインダーやらをためしすがめつし、ようやくカメラを離れると、ウラギンシジミは私の周囲を飛び跳ねるように5・6回も浮き沈みしてから、脇に聳えているニセアカシアの梢を高々と越えてどこかへいってしまいました。

この秋3度目の出会い

 それから2・3日後の午後、玄関先でエゾマツの盆栽に水を掛けていると、独特な翅のきらめきと飛び方からウラギンシジミと知れるチョウがやって来て、エゾマツと水しぶきと私との間で、長々とダンスを披露してくれました。人なつこいのです。

 それからまた数日後のこと、私は子犬の好物の牛のヒズメにデスクグラインダーで切り込みを入れていました。ワンコがもう一度しゃぶり直せるようにするためです。半ば焦げた骨粉が飛び散ると、先ずは子犬が駆け寄って来て鼻をヒクヒクさせました。
 次に現れたのが、なんと、オオスズメバチでした。骨粉の舞う中にホバリングさながら、頭をこちらに向けながら、黄金の狩人は浮いたり沈んだりしておりました。

 ウラギンシジミもスズメバチも、燻煙や下ごしらえの漬け汁、そして骨の香りなどが好きなのだろうと思います。
 一方は、見るからにおどろおどろしく獰猛で、一方は可憐なのですが、似たようなな物を好むとは…生き物というものは不思議です。

 ウラギンシジミ

 

自分が嫌いな君へ 幸せてんでんこ

 

安心して良いよ 若者の半分は君のよう
 私と妻も後期高齢の日々をよたよたと送りつつある老人だけれど、実は二人ともかつては君と同じ側のグループに属していた。それが「今が一番幸せだ」と思っている。ボケのせいもあるだろうけれど、そればかりではないと思う。よかったら、お付き合いをお願いしたい。

 君は、何かにつけ周囲と比較しては、「・・・やっぱり敵わない」としてしまうのが癖になっているんじゃないかな。昔の私たちもそうだったように。
 内閣府の調査によると、毎回のこと、「自分に満足していない」と感じている子供や若者(9〜29歳)は半分近くにも達し、これは諸外国と比べると際立った特徴なのだそう。
 ・・・将来を悲観的に捉える・・・失敗する可能性のあるものにはチャレンジしない・・・結婚を必ずしも望まない・・・今の社会を変えられるとは思わない・・・といった意識も同程度に高いのだそう。
 独りよがりの自惚れよりもよっぽど良いことなんだろうが・・・苦労性というのかな。物事を実態よりも深刻に受け取り過ぎているかもしれない。

    〜雨ゃぁ降って来る 屋根の薪ゃぁ濡れる
              背中の餓鬼ゃぁ泣く 飯ゃ焦げる〜
昔・・・といっても、ほんの少し前までは、幸か不幸かこれで済んだ。とおに逝った私の母もそんなだった。山ひとつ向こうのことは知ることができなかったから。今はどうだろう。
   〜西に火事ありゃ 東にゃ地震
       オレオレ ひき逃げ 人殺し
             セクハラ パワハラ ジェノサイト〜
 それこそ朝から晩まで、現在の私たちは圧倒的な量の報道にさらされ続けているわけだけれど、それを私たちは真正面から受け入れて生真面目に憂え、実態を掴むよりも薄暗いムードとして蓄積してしまう傾向が強いようなのだ。そうした私たち日本人の特性を明らかにしている数字があるよ。

 毎年まとめられる「犯罪白書」によると、少年非行は著しい減少傾向にあり、なんと現在、1983年のピーク時の10分の1にまで激減している。少年院がどんどん統廃合されているんだ。
 ところが、定期的に為されている「少年非行に関する世論調査(内閣府)」によると、国民(成人)の80%近くが「非行は増えている」と感じているという結果が出ている。近年4度にわたって少年法が厳罰化の方向に改定され、どこそこで防犯カメラがやたらに増殖しつつあるというのは、こうしたムードの後押しがもたらしたものだろうね。何処へ行って何をしたかが全部記録されてしまう。こせこせと動き廻るつもりはないけれど、不気味だよね。
 少年非行ばかりではなく、社会全体の治安は悪くなりつつあるというのが私たちおおかたの感じ方で、実態と認識との乖離が生じている。国際的に見て、かなり珍しい現象であるらしい。犯罪率などに基づいた客観的評価では「社会の安全世界2位」である国が治安を心配しているんだよ。

不思議な国 ニッポン
 似たようなチグハグは他にも幾つか見られるよ。
 「対外純資産(海外に持つ資産から負債を引いたもの)」が32年連続世界最大。次いで、生活の質・文化的発信力・ビジネス環境など10項目にわたる採点で「世界のベストな国」の最上位クラスにランクイン。そして何といっても、社会の質の集大成と言える「平均寿命」が世界のトップ。
 ところが、主観的な自己評価を中心にして「世界の幸せな国」をランク付けてみると、日本は世界の国々の中で60位あたりを、つまり、途上国どころか低開発国といわれているレベルを浮いたり沈んだりしている。不思議なことだよね。まるで、日本という国は二つあるようだ。
 ちなみに「幸せな国」の上位にはヨーロッパ諸国がずらりと並んでいるが、その頂点を北欧のフィンランドが常連で競っている。そのフィンランドといえば、都会にはシェルター(避難壕)が人口よりも多く作られていると聞いているが、人々はそんな緊張を含んだ状況を主観的には「幸せだ」と感じているらしい。国民性、民族性というのは不思議だね。
 勿論、日本人といっても色々なタイプが居るわけだけど、全体としての色付けは、こだわり、律儀、苦労性といったものに傾いているとして良いようだ。

 ジャーナリストは、劇的に劇的にと情報を加工しようとする。注目されないと彼らは食べていけないから・・・。こういう癖がエスカレートして「大衆はこの世ならぬものを見たがるものだ」などと公言してはばからないジャーナリストが実際に居る。気を付けないとね。
 劇的に色付けされた情報の波にそのままに打たれ続けていると、深刻に深刻にと感覚が膨らみはじめて、実際には何が起こっているのかが判りにくくなるのだろう。そして、律儀という特性のせいか、私たち日本の大衆はメディアに対する信頼度が高いというか、つけこまれ易いようなんだ。

どうせ比べるなら いっそ開き直ってみよう
 いっそ、あの大谷翔平さんと比べてみよう。彼は君の倍も背が高いですか。倍も速く走れますか。
 そんなはずはないのだけど、まあ良いです。大谷翔平という人は、持って生まれた天分というか性能を君や私なんかの3倍を備えているとします。とりあえず、私たちは10、彼は30。
 話は飛んでちょっと古い話になるけれど、あのゼロ戦のパイロットとして太平洋戦争を闘い抜き、敵機64機を撃墜して生き残ったという坂井三郎というエースは「・・・戦闘機乗りは最後に頼るものは自分以外にはない・・・自分の精神、智能、体力をその極限と思われるところまで鍛えに鍛えてみた・・・大部分の人たちは自分が持って生まれた性能の平均30%くらいを使うだけでこの世から去っていってしまっているのだと私は思う・・・」と回顧録に書き残している。なるほど、そんなものかもしれない。耳が痛いな。
 大谷翔平さんはものすごい努力家らしいから、仮に自分の性能の90%を出し切れているとすれば、結果は30×0.9で27。君も頑張って90%は無理にしても50%を引き出すことができたとすれば、10×0.5で結果は5。
 なるほど、この差は大きい。5倍以上だもの。
 さらには、この5倍の差を「別格だ!」「人間離れしている!」と大勢の人達が仰いでいると、5倍どころか途方もなく膨れだすことがある。勝手に膨れだすのではない。ヒトの集団というものは、一定の枠を超えたものにカリスマ性を与えて、大空にゆらめくオーロラを見上げるように、有難くおののきたいという習性があるらしい。これも不思議だよね。
 大谷選手のオーロラの巨大さを金銭に置き換えて見ることもできそうだ。彼のこれからの10年間には1000億円超えという値段が付けられたという。日本人の平均年収がおよそ400万円だとすると・・・計算が間違っていなければ・・・なんと2500人分だぁ!
 彼にはさらにCM出演などによる収入がある代わりに、累進で高額税金を取られると事情があるわけだけど・・・まあ単純にね。

 ここで腰を抜かしたままでいると、400万円すら得られなくなってしまう。オーロラに飲み込まれない別の見方もあると思うよ。
 稀な天分と努力とが掛け合わされると、大谷選手のように空一杯にオーロラを乱舞させるのも可能なことがあるけれど、1シーズンを続けると腕の手術を受けなければならないという非情な仕事であることから分かるように、それを長く続けることは出来ない。戦闘機のパイロットがぎりぎりに張りつめた空戦を何年も続けることが不可能なように・・・。
 大谷選手が仮に10年間を輝き続けることができたとすると、27×10で270が積み上げられる。君がコツコツと精進して、こだわり、律儀、苦労性といったものを50年間溜めたとすると、5×50で250を積み上げることができる。50年間には複利が付くとしたら、もっと近づくかな。ほら、ほとんど同等。あの大谷翔平さんとだよ!

 君はオーロラのように輝くことはできないけれど、例えばウルシ塗りの食器のように深い艶を発するようになれる。いろんな分野で、現場で、君に似ている多くの人がやっていることなんだ。
 日本の「アニメ」はどうして無敵なのかを考えてみよう。和食、発酵、陶芸、木彫、盆栽、農芸、造園、養殖、音楽、舞踏、剣道、柔道、空手道・・・そしてノーベル賞、極め付きはイグノーベル賞・・・水道や電気や流通といったインフラを精緻に支えている現場の人々・・・等々、ああキリがない。こうしたこだわりと発想の積み上げは、誰がどのようにしてもたらしているものかを考えてみよう。
 私たち日本人は自然と向き合う時、それを克服しようというよりも、それを身近に取り込んでエッセンスを見出だそうと入れ込むからね。こだわるんだ。良い民芸品が多いわけだ。
 「ここにこそ自分の居場所がある」と探し当てた分野で、それぞれの現場で、自分が汗を流している処で・・・腕利きの職人、名人、達人の域に達している人はそれこそいっぱい居る。

 飲み込まれないようにと言えば、次のような見方もあると思うよ。
 例えば、ウラジミール・プーチン、習近平、金正恩といった強権政治家たちはどういう人達だろう。こうした人たちは何万人分の金銭どころではなく、数千万人数億人を統治する権力を握ってしまうまでになっている。彼らが演説する舞台の背景には体制の安定や戦争のために犠牲にされた膨大な血の池が広がっているわけだが、後ろに立つ亡霊が一定の数を超え、責任ある当人がシレッとしていると、人々は「人物が大きい」と錯覚して、そのカリスマ性を仰ぎ見ることになる。そこにつけこまれる。
 彼らは、君や私の5倍も10倍も賢くて大きいのだろうか。ちがうなぁ。何かが欠けているために大きく見える可能性があるよ。
 ナポレオンは、脇に立っていた部下の士官が飛来した砲弾で真っ二つになったのを見てカラカラと笑ったという。彼ら「大物」に欠けているのは、おそらく「恐怖心」そして「生への畏敬」。
 「他人はこの私に貢ぐために存在する」と思い込んでいる人を冷血者と呼ぶのだそうだが、その特徴は恐怖心が無いこと、後悔しないことであるらしい。なにが起こっても動じないわけだ。
 気を付けよう。奇妙なものを選んで持ち上げていると、とんでもない目に合うことになる。

こだわり・律儀・苦労性 どうして私たちが
 こだわり・律儀・苦労性の反対語はそれぞれ、おおざっぱ・移り気・楽天的とでもなるだろうね。前者は静的で、後者は動的。
 数万年前からのことらしいが、日本列島に人々が渡ってきた頃には「動」の要素を豊富に備えた人が多かったと思われる。先へ先へと移動しながら切り拓いて行かなきゃならないから。アメリカの西部開拓の様子と似たところがあるかな。長く続いた縄文時代の土器を見ると、荒々しく燃え上がるような力動感に圧倒されることがある。
 これがかなりのペースで「静」に入れ替わってきた。ついに列島に伝来した稲作というものが潮目のように作用したのだろうね。弥生式土器は、縄文式のそれとは対称的なほどに薄くて静的だ。君も感じたことがあるんじゃないかな。
 75%が山地という狭隘な列島で安定した食べ物を得るには、単位当たり収量の高い水田稲作が有利で、ことに棚田を作って守るとなればなおさらのこと、おおざっぱや移り気では済まない。入念な見積もり、石垣の積み上げ、水の按配、何よりも共同作業と互いへの気配りが必要だ。ちょっとした不注意が「水争い」になったりするからね。
 米の出来高が土地土地の経済力の基準指標となり、時々の統治者たちが米の生産を漏れなく握っておきたいと図るにつれ、人々の関係も固定されてゆく。年貢をきちんといただくためには、作り手がやたらに動き廻ってはまずいもの。
 広い平地の拡がる大陸の国々よりも、動から静への変化は大きかったはずで、こうした淘汰の積み重ねが現在の日本の人々の特性となって繋がっている。どうだろう。考えられないことじゃないよね。

静かで良いのだ
 何回も言っていることだけれど、勿論、日本人といっても様々なタイプがあり、動的な個性を持つ人は沢山いる。それ故に目立つ人も居るわけで、例えば、6つの大陸の最高峰に単独で登頂した登山家も居るし、北極圏で行方不明になってしまった冒険家も、独りで太平洋を往復したヨットマンもいる。お茶の間に無遠慮に入り込んでくるテレビタレントやコメンテーターなども沢山いる。限られた時間にこじゃれたことをどれだけ思い付けるかを競い合うから、まるで躁病者のパーティーのようにかしましい。それもどんどんエスカレートして行く傾向がある。何時テレビのスイッチを入れてもパーティーが開かれているから、騒いでいる方がノーマルで、こちらの方がずれているのではなかろうかと錯覚されてくるほどだ。
 そうかな。ノーマルかな。あの種の競争の裏には、○○事務所、××歌劇団といった裏の表情があるよ。つけこみ、つけこまれる。泥の中でのたうち回っている。SNSの悪乗りユーザー・・・地獄だぁ。

 律儀、苦労性、こだわる・・・これに徹すれば徹するほど人の中に埋もれて目立たなくなるけれども、これはこれで悪いことじゃない。
 災害大国でもあるこの国には、地震、津波、噴火、集中豪雨などが頻回に起こるが、そんな時にそれがはっきり出るんだと思う。人々は静かでパニックにならない。どさくさに紛れて強奪を企む者もいない。列を作って水を待ち、炊き出しなどをして助け合っている。驚くべきは、多くの人が次の日から生活の立て直しを口にすることだ。「いのちてんでんこ」というのは「自分のことをまっさきに考えても良い時があるんですよ」と伝え合おうとしているのだと思う。

流されても良い 溺れないようにしよう
 日常が情報戦の様相を呈しつつある現在において、テレビ、スマホ、タブレット、ゲームなどを規制することは無理であり、というか、それらは既にヒトにとってブラックホールのような存在になってしまっていて、今さら手放すことは不可能だろうと思われるんだ。
 そうした状況の副産物として、近視、肥満、総合体力の低下、不登校、引きこもりなどが増加しつつあるというのは、程度の差はさまざまにしても世界中の子供や若者に見られる傾向なのだろうね。利便性という自転車に乗ってしまったら、進み続けていないと倒れちゃうもの。
 少し前、小学6年生の教室を写した大きな写真を新聞で見た。27人中12人がメガネを装着しており、学童たちは私たち老人が小学生だったころと比べて、はるかに大人びて見えた。スマホに付き合い込んでいれば、なんだって知った気分になってしまう。彼らのほぼ全員が笑ってはいたが、その水晶体が既に弾力性を失いつつあり、心も疲れているのではないかと気を廻してしまった。利便性に流されても仕方がないのだろうけれど、失うものも大きいことを知っている必要があると思うよ。

 私の取りこし苦労かなぁ。それにつけても、日本の若者に特有な色味ではないかと妙に気になるところが有る。
 ・・・縮みゆく日本、沈みつつある日本・・・と繰り返し聞かされているせいか「将来に明るい希望は持てない、成功の保証の無いものにはチャレンジしたくない」と君たちの多くは感じている。同時にその一方で「社会のために役立つことをしたい」と願っている若者が少なくないという。・・・ということは「自分では決められないけれども、誰かが方向を示してくれればそれを支えたい」ということなのかと深読み出来なくもない。
 これは危ないのではなかろうか。誰が方向を決め、何に追従することを求めようとするのだろう。君たちはどういう社会のためになりたいのだろう。それをどうして自分たち自身で決めてはいけないのだろう。近視でも話し合いや投票は出来るものね。

 さらに、「気になる」では済まない現実がある。切ないな。
 この国の10代から30代までの若者の死因の1番は「自殺」、次いで「不慮の事故」つまり交通事故・転落・水難・中毒などが2番となっている。

 先進国(G7)では、この順序が逆なんだ。日本の社会は気配りが行き渡っていることから事故が未然に防がれており、そのために自殺がトップになるのだろうと考えようとしてみたが・・・違うんだ。若者人口当たりの自殺率そのものが、諸外国よりも目立って高いんだ。

ちょっとした心得で、それぞれの将来は開く 幸せてんでんこ
 何度も触れているように、律儀・苦労性・こだわりに傾いているという特性は、極東の小さな島国が世界に向けて特異な文化を発信してゆける基盤を支えているのであって、それはそれで悪いことではない。素晴らしいことだよね。それで日本は浮いていられるのだろうから。
 ここで、あまりに内向きになりすぎて固まってしまうと、君も仲間も沈んでしまうんじゃないかな・・・。
 どうしたら良いだろう。一人一人の問題なんだ。長く生かされて生きてきた一人の老人として、ささやかながら何かを伝えられたら有難いと思うよ。

・決めつけないようにする 上手に比較しながらゆっくり歩く
 「どうせ、私は・・・」と決めつけるのは・・・×
 「ひょっとしたら、私は…」というのが・・・〇
 「どうせ私は嫌われ者だ」とか「どうせ私は役立たずだ」という決めつけは、比較する相手と方法が間違っているところから生まれる。
 何を真・善・美とするかという基準、それを求めるために知・情・意をどのように使ってゆくかは君がこれから迎える時とともに君の内面で変化してゆく。
 私事になるけれども、最近、或る老婦人(実は私の妹)が川柳とも俳句ともつかぬものをメールしてきたことがある。
  〜百合でなく 牡丹でもない人 ゆったりと〜
「美人であることにはあきらめて、その代わり、世に通用するように少しずつ生き方を工夫してゆく。これが何よりだと気が付いて、この頃はゆったりしています」とのことだった。
 ほらご覧。普通の多くの人々が、多少の努力を続けながら、自分の芯になりそうなものを探し続けて、そしてささやかにゲットしているんだ。

 「決めつけ」が「思い込み」となり、さらに「思い詰め」というふうに煮詰まると厄介なことになる。背を向けて独りで煮詰まっているのは周囲には分かりにくいので、集計によれば、学童の自殺の原因のおよそ半分が「不明」となっているんだ。
 ちょっと心を開いたら、「どうせ…」を「ひょっとしたら…」に変えられるかもしれない。心を開くコツの、少なくとも幾つかは次のようだ。

・少しずつで良い 動いてみる
 「思い詰め」の背景には「・・・誰も分かってくれない」「・・・何処にも居場所が無い」「・・・相談できる人が居ない」といった「孤独感」がある。それで「共感」や「信頼関係」の有無というのがキーワードになってくる。
 共感と信頼というものは何処から生まれるものだろう。
 赤ちゃんが泣く。チッチなのかマンマなのか、お母さんの推測と赤ちゃんの期待は一致したりすれ違ったりする。それを繰り返しているうちに、だんだんビンゴが多くなる。互いにコツが分かってくるんだ。「いい子ねぇ!」・・・赤ちゃんもお母さんもニコニコ・・・これが共感と信頼の芽生えと基本。
 単管パイプで足場を組み上げている職人さんたちの作業ぶりを見たことがあるだろ。鉄のパイプは結構に重いものだ。一人が一本を投げ上げる。それが頂点に達して、あわや落下というきわどいタイミングで、上の人が掬い取るように手を伸べて受け取る。絶妙なリズムの連続で、言い換えれば信頼の積み上げで、足場はたちまち張り巡らされてゆく。
 どうして親子はしばしばキャッチボールを好むのだろう。「言葉のキャッチボール」というのは、何処から生まれた表現かを思ってみよう。
 一緒に何かを経験すること、身体を動かすこと。一緒に汗をかくこと。これが基本のキなんだ。
 君は家事手伝いが出来ているかなぁ。食器の片づけ、新聞取り、ゴミ出しといった簡単なものでも家の空気を何処かで微妙に支えてる。お母さんと一緒に動いているんだ。まして、みんなの靴磨き、お使い、庭の草取り、ペットの世話、DIYの手伝いなどを引き受けられてるとすれば、お父さんお母さんはニッコニコ。手を抜いたら小言を言われることはあるだろうけれど、こっぴどく叱りとばされるということはあるはずがない。

 ところが、「あるはずのないこと」が起こることが残念ながらあるんだ。稀なことだけど。
 暴力やネグレクトといった「虐待」を受けることがその一つで、赤ちゃんの頃に作られているはずの「基本的信頼感」の歪みが根っこになっていることが多い。君と両親とのミスマッチングの最悪な結果だと言えるんだろうね。
 それが君に起こっているとしたら大変だ。クモの糸のように細い命綱にすがりながら、別の土俵で新しいマッチングをまさぐらなければならない。大変なことだけど、命綱の先を握ってもらえるのは、血のつながった親でなければいけないという訳ではないんだ。
 短くても一緒の時間を過ごせる相手を見付けること。それも容易であるはずはない。当人は「自分が悪い子だからこういう目に合う」と思い込んでいることが多いから、なおさら勇気が要る。
 けれど、一本の電話を掛けることから新しい信頼関係が芽吹くかもしれない。電話をかけることも身体を動かすことだから。チャレンジしてこそチャンスは生まれるんだ。
 いじめ? 親とのミスマッチングに比べればヘノカッパ。共感と信頼関係のこじれだから、対応の基本のキは同じ。あれこれと悩んでいるよりも、家の手伝いのことに立ち返って見て・・・これが出来ているなら、しばらくはお父さんとキャッチボールをしたり、お母さんと散歩したりしていれば良いんだ。出来ていなければ、どんな小さなことでも良いから始める。先ずは自分の巣穴というかホームベースを堅めないとね。あとはしばらく待つ。この私でさえ乗り越えることができた。

・細くて強い神経を
 偉そうなことを言ってる私も、何年か前までは「図太い神経」に憧れていた一人だった。ああではないか、こうではないかと何時も周囲をおもんばかっていて、言いたいことやりたいことがあっても、つい立ちすくんでしまう。そして「あの時ああすれば良かった、こうすれば良かった」と後悔ばかりする。
 そんなふうでも、私は齢を重ねることができた。だんだん分かってきたことがある。消極や引っ込みは相手を傷付けることがあり、例えば「だんまり」は相手を疑うというジコチュウな行為。これまで、どれほどの人がそれを許してくれていたことだろう。
 「間違っているかもしれないけれど・・・」と自分の思いをはっきりさせて動くように少しずつ努めることにした。少しずつではあったが、それにつれて「自分なりに頑張っているのだ」という肯定感が増してきた。
 「細い神経」というものは生まれつきのところが多いのだろうが、それを「強い神経」に変えてゆくことは可能であるらしい。「太くて強い神経」は当たり前だろうけれど、「細くて強い神経」はちょっと格好いいものだよ。違うかなぁ。

・生への畏敬
 かれこれ二十年ばかり前のこと、無残な方法で二人の子供を殺めて日本中を震撼させた少年がいた。その少年の表現によれば「ヒトもキャベツも同じだ」というのだった。
 軽く見られたね! 先ずはキャベツに失礼だ。植物はその場に居たままで、昼間は光合成をして糖分を蓄え、夜はそれを燃焼させて成長してゆくことができる。代謝のサイクルが完結しているから動かないで済む。ヒトを含む動物は植物の作り出したものを当てにしないと生きてゆけない。ヒトよりもキャベツの方が優れたところが有るんだ。
  〜オケラだって ミミズだって アメンボだって 
       みんな みんな生きているんだ 友達なんだ~
 知ってるだろ。この唄には多くの小動物が出てくるが、植物は登場しない。可哀そうに、手落ちだよねぇ。
 現在の地球には3000万種ともいわれる生命体で満ちあふれている。そのどれもこれもが生きようとするエネルギーで張りつめているからこそ、命の炎をバトンしながら、絶滅を逃れられて今に続いているんだ。
 君もちょっと調べて欲しい。この惑星上の生命は、何十億年も前に、生きるための「不敗の戦略」ともいうべきシンプルで優れたシステムをゲットすることができ、それをみんなが便利に使い廻すことになった。そいう意味では、ウイルスを除いて、地球上の生き物は1種類なんだ。
 動物が植物を食べるのは共喰いとも言え、本来は責任を伴うはず。私たちは「いただきます」とよく言うけれど、命あるものへの慈しみと感謝とを保つためには、おざなりであってはいけないと思う。命のいとなみというものに鈍感であるものが、自らも幸せになれるはずはないよね。
 
・流されても 溺れなければ良い
 今の世、押し寄せる情報の量に流されないようにするのは不可能なことだと思われる。ただ、要領がある。頭を先にして流されていると岩にぶつかって致命傷を受けることがあるので、脚の方を先にして出来るだけ辺りの様子をうかがいながら流されること。流されるのに頭を使う必要はないじゃない。
 お金に振り回されるのは最高に悲惨だぁ。地獄の窯でアップアップしていても、なお追いかけられる。お金は不思議なもので、有っても無くても人を振り回しにかかる。
 が、若い君には信じられないことだろうけれど、金銭には換算できないものが確かにあるんだ。負け惜しみではないけれど、私たち老夫婦はそこそこに頂いている年金で日々を送っているが、いまが一番幸せだと思っている。何をどうして・・・笑われそうだから教えない。
 苦労性をそのままに、律儀に、こだわりながら齢を重ねていたら君にもきっと見付かるだろうから、まあ頑張ってくれたまえ。

終わりに
 よくまあ、ここまで付き合ってくれたね。
 最後に、また比較の話に戻って明るく終わろうと思うんだ。

 私は東京都多摩地区の片隅で後期高齢の日々を送っているのだけど、ラッキーなことに、車で4分半ほどのところに「秘密基地」と云えそうな場所を見付けることができている。そこは、私にはぴったり手頃な大きさの菜園、ケヤキとヤマザクラが作ってくれている木陰、ウグイスが鳴く雑木林、トビが舞う多摩川中流の空・・・といったものに恵まれている。どれもこれも私のものではないけれども、楽しむことは出来ているから、そんなことはどうでもいいことなんだ。駐車スペースもあって毎回使わせてもらっているが、「駐車は遠慮願います」と書かれた古びた札が立っているものの、一度も咎められたことはない。今どきの東京でだよ。地方に出かけた時でもうっかり車中泊なんかしてごらん。ちょっとした空き地で寝ていて職務質問されたことがある。
 というわけで、今の都内でも、いつかヨーロッパで見て憧れた「クラインガルテン」をゲットできることがあるんだ。

 ある高名な学者のシミュレーションによると、これから100年もすると日本の人口は江戸時代並みの3000万人に減少するのだそうだ。よく聞かされるように「GDPのランクが後退する」「国際競争力が落ちる」といようなマイナスばかりだろうか。違うな。
 日本は亜熱帯から亜寒帯までを占める細長い列島で、その広さは37万8000㎢。残念ながら平地は20%ほどしか無いが、その半分ほどは農耕地として残されている。つまり400万ha前後は農耕地としてこれからもあり続ける。これを人口の3000万で割った1300㎡が一人当たりの耕地面積となるわけで、これはおよそ400坪に当たる。計算に間違いがなければね。
 一方「100坪の田があれば飢え死ぬことはない」とは昔から言われていたことで、なるほど江戸時代の日本は食料の自給率は100%であったことが頷ける。だから100年後の日本は、オイルショックだろうとガスショックだろうとリチュウムショックだろうと、GDPや競争力が落ちようと‥・大丈夫、飢えることはない。日本は縮んでも沈んでしまうことはないんだ。
 首都圏であっても空き家や空き地がどんどんと目立つようになるはずだ・・・人が抜け落ちるのを「スポンジ化」と言うらしい・・・例えば「多摩ニュータウン」なども、集約すれば広大な地面を公共的に活用できるはずで、こうしたことが現行の法制下では難しいとするなら、どのようにしたら公正に役立てるかを考えるのは君達がしなければいけないことだ。ほら、参画しなければいけないことは身近にある。それぞれの秘密基地やクラインガルテンがかかっているんだ。生活の質の問題だよ。
 100年という時間は瞬く間に過ぎるけれど、その時、耕作放棄地や空き地がやたらに増えてゆくばかりで、あるいは海も痩せたままに放置されていて、生産の基盤があるにもかかわらず3000万人分の食糧が自給自足できないとすれば、残念ながら私たち日本人は江戸時代よりも心身が退化してしまったのだと言わざるを得ない。武蔵野が再び原生林に還ってゆく様子を想像するのは、楽しくないことはないけど。

 「退化」や「萎縮」に流され勝ちというのは、いわゆる「マインド」が係わるところが大きいと思うんだ。知らず知らずに自己催眠に掛かっているのだろうかね。
 国際情勢というものに絡んで、例えば大国「ロシア」を思い浮かべてみる。あの国の国土は世界最大で地球の陸地の13%を占め、ユーラシア大陸の北をヨーロッパから極東まで、なんと日本の45倍もある。それでいてなお、西方にも東方にも、強引に拡大しようとしているように見える。北方領土など、とてもではないが、返してもらえそうな気配はない。
 ロシアと聞いて私たちが思い浮かべるのは、先ずはプガチョフ、ラスプーチン、ロマノフ王家、スターリン、プーチン、プリゴジン、ナワリヌイといったふうで、いずれも、反乱、独裁、革命、粛清、暗殺といった陰惨なイメージを伴わないでは済まない。トルストイ、ドストエフスキーという名前さえも私には重い。
 「ツァーリボンバ」と呼ばれる水素爆弾に至っては、広島型原子爆弾の3300倍もの化け物で人類史上最大の兵器とされ、これが爆発した時の衝撃波は地球を3周したという。その孫のような大量殺人兵器を「必要があれば何時でも使う」とプーチンは言ってる。おそろしや、おそロシア!

 これは本当なのだろうかね。私たちが勝手に、あるいは、あの国の巧みなイメージ操作に乗せられて作り上げてしまっている虚像では?
 国土の60%が永久凍土であり、80%はヒトが住むのは難しい風土だという。これだけで、日本の45倍という大きさが一気に9倍というレベルに縮んでしまう。残された国土も生産性は低いだろうから、実態は更に縮むとさえ考えられるよ。
 広いだけに天然地下資源には恵まれており、技術の進歩によって採掘現場は点と線で繋がりながら荒野を北上するのだろうが、それらの間の広大な原野はそのまま。そこに取り残されるように、180以上もの少数民族が薄く広がっている。これらを纏めてゆくには中央集権的で強力な統治機構が必要であるだろうことも頷けるようだ。かつてのツァーリ、ソビエト、現在のプーチンもそのように行動して束ねた。独裁国家は脆そうに見えるから、他の独裁者に狙われることがある。ロシアは北へ北へと撤退を繰り返すことで、ナポレオンにもヒトラーにも負けなかった。勝利をもたらしたのは、永久凍土を含む荒野だったんだ。
 ロシアを支えているのは不毛の凍土であり、凍土をこの世から消し去ることは不可能。けれど、凍土は本来受け身であって攻撃的でも侵略的でもない。
 ロシアと付き合うコツはここにあるのではないかな。やたらに怖れるのではなく、大きさの実態を掴んで凍土を開発するウィンウィン関係を広げてゆくことだろうね。プーチンも言ったことがあるよ。「引き分け」だって。
 そうだ、ロシアはしばしばクマに例えられる。なるほど、ピッタリ。クマは力強く、飢えにも強いが、猜疑心も強い。当方は何処で何をしていて、何を希望しているかを常に伝えて、いきなりの鉢合わせを避けることだよね。

 パラドクスが言われることがあるよ。
 〜やり残したことがあるからこそ死んでゆける〜
 どういうことだろうね。「希望」ということがキーワードになると私は思うんだ。
 どんなに頑張っても、やり残すことは必ずある。それを未来と後進に託すことを希望という。明るい未来を信じられるから死んでゆける。これが成り立つ条件は、どんなにささやかなことであっても、やっていることが未来に託するに値するものであること・・・。
 こだわり・律儀・苦労性を醸しながら生きることには価値がある。そういうわけで、ここまで付き合ってくれた君に未来を託します。よろしくお願いします。

この光景 Forever 秋編


この光景 Forever

 私たちの列島は、龍が横たわったように南北に細長く伸びているので、亜熱帯から亜寒帯までの自然がうまく連続し、四季が豊かに現れます。
その7割ほどが複雑な形をした山地であることから、例えば秋、「こんなに多くの鷹たちがいったい何処に住んでるの?」と思われるほどの「鷹の渡り」と言われる光景が各地で見られます。秋晴れの向こうの連山の上に「蚊柱」ならぬ「鷹柱」が立って巻き上がるありさまは、心が放たれるような感動を与えてくれるものです。

 夏編の続きとして、「樹の上で獲物を食べるミサゴ」「薄の群生や林」「秋のカワセミ」「和太鼓の練習」など、秋の光景を幾つかピックアップしてみました。
どれも身近なものですが、当たり前のようでいて、なかなかそうではありますまい。ミサイルやドローンや砲弾などが飛んでこないこと・・・これは勿論ですが・・・私たちが注意深く守ってきた平和と平穏の全体が収斂して、こうした光景となって現われているのだと言えそうです。誇りに思います。

ミサゴ
ミサゴは、猛禽類のうちでも、もっぱら魚を捕らえて食べるように特化した種類で、空中でホバリングして狙いを定めるや、さかしまにダイブして水面下かなり深くに居る魚を抜き上げるという特技を持っています。
ここに見るミサゴは、折角の獲物を樹の上まで担ぎ上げられたものの、ご馳走が大きすぎてバランスを取るのに苦労しています。
大きな翼を盛んに煽り上げていますが、もったいを付けたり、見せびらかしているわけではありません。ご馳走をテーブルに按配良くセットしようとしているのです。


プランクトン・・・水棲昆虫・・・魚・・・ミサゴ・・・やがてみんなが再びプランクトンに・・・。この連環が何時までも、自然のままに保たれて続きますように。


ススキの穂が風に揺れるありさまは、それこそ見慣れた光景です。
けれど、それを順光で見るか、逆光で見るか、背景は・・・そもそも尾花の色味や透明感が、株によってあるいは季節の進み具合によって千差万別であるので・・・ふと立ち止まってしばらく眺め入ってしまうことがしばしばあります。

 花穂がそよぐ様子が、深海のクラゲか何かの乱舞を見るように幻想的であることさえあります。

秋のカワセミ
「ツー」と鳴きながら一直線に飛ぶのが、翡翠の弾丸を見るように心躍るものですが、ここは、枯れて垂れ下がったカラスウリか何かの蔓に止まって魚を探しています。
クチバシの下側が赤みがかっているところから、メスであることが分かります。

またの日、おそらく同じ個体ではないかと思われますが、水面に張り出した藪の窪みで休憩しています。枯葉の影が背中にタスキを懸けたように落ちており、あたりが照り返しに映えています。

和太鼓の練習
 このあたりに伝わる「のろし太鼓」の保存会の皆さんです。楽しそうです。
太鼓は誰が叩いても音は出るものの、それを聞かせるまでにするには、大層な練習が要るのだそうです。秋の休日、河川敷の堤防の脇は、合奏の合わせにはうってつけの場所なのでしょう。


 

この光景 Forever 夏編


この光景 Forever

 ほんの少しを身近から抜き出しただけでも、ここに並べたような光景がそこかしこに見られる・・・なんでもないことのようですが、なかなか、そうではありません。私たちは誇りとすべきだと思います。

 極東に位置する天然資源少なく自然災害多い気難しい列島。これを上手に運用して浮いていられるのは、この国に住む人々の資質と努力のみがよくするところだと感ずるのです。
 このところしばしば、「・・・縮みつつある日本・・・」というようなことが言われますが、そんなことに煽られることはありません。量よりも質の問題です。縮んでスリムになっても、沈まなければ良いのです。
 私たちは憲法前文に謳われている「・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ・・・」を長い間を懸けて具現してきました。今迄と同じように平和を保って堅実を積み上げてゆければ、特異で上質な文化を世界に向けて発信し続けることができるのです。浮いていられます。間違いありません。

朝の河川敷運動公園 夏
 この夏は猛暑の日が続きましたが、朝の陽射しが未だ斜めである頃を選んで、季節を楽しんでいる光景がありました。習慣のようにしているそうです。
 登場する方々とワンチャン達には、動画を撮した直後に見ていただいて、ここに掲載する許可を得ています・・・。

折からの猛暑を忘れさせるような透明感と素敵なエチケット

 

サギと少年たちの夏
この頃の学校では、このような川遊びは推奨していますまい。
少し冒険したのでしょうが、きらめく流れとサギたちに恵まれて・・・うらやましい夏休みです。

 私が学童だったころには、もっぱら、木曽川の水源近くの本流で水遊びをしました。「夏でも寒い」と木曽節にあるように、水温は高くても19度前後で、ほんのしばらく川に入っていると唇が紫色になって身体の震えるのが止まらなくなりました。子供たちは声を揃えて歌ったものです。

   テントサマ テントサマ
   お手紙あげるで お湯おくれ
   山ばっか照って 川ばっか照らん
   川の神様 泣いている

 

夏の朝のキセキレイ
 キセキレイが美しい小鳥だとは承知していましたが・・・。
水鏡に映えて、素晴らしく端正です。
私たちを取り巻く環境の全体が、こんな光景を支えているのです。これからも、ずっと続くでしょう。

 

 

 

 

 

日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅠ あるカップルとの会話

なんだか、大きく振り上げてしまいました。
世界の中の北欧と日本。これを見てゆくと、始めはどうにも分が悪そうに見えます。けれど、だんだんと日本がいじらしく思えてきました。
やがて「日本だってやれるぞ」となり、ついには「こうすれば、もっと良くなる」と考えられるように・・・考えられるようになりたいです。
次のような目次に沿って、何回かに分けながら、進んでゆきたいと思います。

目次
そのⅠ ある中年カップルとの会話
そのⅡ 自然災害と天然資源について
そのⅢ 来た道 似たところと違うところ
そのⅣ 自然との向き合い方について
そのⅤ デザインについて
そのⅥ 幸福度ランキング そして自殺
そのⅦ 日本の今の豊かさ 「貿易立国」から「投資立国」
そのⅧ 世界が見る日本 なぜ最高の国ベスト3に入るのか
そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの
そのⅩ 私の精一杯の提言

そのⅠ ある中年カップルとの会話

北欧のゆとり? ユーモア?

BERGEN?
ノルウェーの西海岸には、大小複雑なフィヨルド(入り江)が連なっていますが、
その南端に近く、海岸線が入り組んだ奥に、ベルゲンという港町があります。
ご存知の方も多いと思いますが、ノルウェー第二の都市です。日本の北の旭川市よりも少し小さく、南の那覇市よりもいくらか大きい、人口30万人ほどの歴史の古い街です。

街の中心、つまり港からわずか10㎞ほど南に造られた一本滑走路のベルゲン空港があり、ターミナルを出てバス停に向かうと、駐車場の向かい側の崖に「BERGEN?」とありますから、一瞬「え!」となりますが、すぐに笑えてきます。


そういえば、空港建物の中でもホッコリさせられるものをいくつか目にしていました。

トイレの案内表示
紳士淑女ともに、漏れそうなのを我慢しているのが分かります。しかも等身大以上で・・・なかなかやってくれます。

回廊の途中に作られている遊具です。
空港にふさわしく、反射板で光を命中させると、上に取り付けてあるセスナ機のプロペラが回って機体も動き出すのです。子供たちが遊んでいました。極東から来たおじいさんも・・・もちろん遊びます。

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日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅡ 自然災害と天然資源

この記事は「日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!」を下のように分割したものの、そのⅡです。

目次
そのⅠ ある中年カップルとの会話
そのⅡ 自然災害と天然資源について
そのⅢ 来た道 似たところと違うところ
そのⅣ 自然との向き合い方について
そのⅤ デザインについて
そのⅥ 幸福度ランキング そして自殺
そのⅦ 日本の今の豊かさ 「貿易立国」から「投資立国」
そのⅧ 世界が見る日本 なぜ最高の国ベスト3に入るのか
そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの
そのⅩ 私の精一杯の提言

自然災害について

ノルウェーの国土はおよそ38.5万㎢でほぼ日本と同じ大きさです。

ところが、世界の陸地の0.3%弱を占めるだけであるにもかかわらず、日本は
全世界で起こる大きな自然災害のおおよそ20%を引き受けてるという超災害大国です。地震、津波、噴火、台風などがもたらすものです。

これに対して、北欧の自然災害はほとんど0%と言っていいでしょう。

そもそもノルウェー、スウェーデン、フィンランドは「スカンジナビア岩盤」という古くて硬い御影石の上に乗っており、火山というものがありません。
体感できる地震はまずありません。地震がないのでツナミもあり得ません。

台風、ハリケーン、サイクロンといった熱帯性低気圧起源の暴風雨も関係ありません。北海道よりもはるかに北にありますから。

雪はどうだ
寒いだけに雪害には悩まされるだろうと思うのですが、氷河が削った窪地に雪は吹き溜まるものの、建物の屋根や道路にどっしりと降り積もるということはあまりないそうです。サラサラしていて処理し易いのです。必要な除雪は手際よくなされるそうです。

水はどうだ
春には雪解け水が解けて鉄砲水になるだろう。これには困るだろう・・・少し困ってくれ。
たしかに、春から夏への移行が速いので、氷が塊になって溶け出すことがあります。地形の狭まったところを堰き止めてしまってダムのようなり、溢れた水が付近の民家に床上浸水をもたらすというニュースがあるようです。
これには、適宜に堤防を嵩上げするなどの手当てが進んでいることで、被害件数は少なくなっているとのことです。

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日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅢ 来た道 似たところと違うところ

この記事は「日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!」を下のように分割したものの、そのⅢです。

目次
そのⅠ ある中年カップルとの会話
そのⅡ 自然災害と天然資源について
そのⅢ 来た道 似たところと違うところ
そのⅣ 自然との向き合い方について
そのⅤ デザインについて
そのⅥ 幸福度ランキング そして自殺
そのⅦ 日本の今の豊かさ 「貿易立国」から「投資立国」
そのⅧ 世界が見る日本 なぜ最高の国ベスト3に入るのか
そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの
そのⅩ 私の精一杯の提言

来た道 似たところ違うところ

北欧と日本には、歴史に似かよったところがあります

片や北極圏に近い半島というヨーロッパのはずれで、片やしばしば地面すら揺らぐという極東の島で、厳しい自然を受け入れながら、人々は限られた範囲の中でさまざまな興亡を繰り返してきました。
考えてみれば、こうしたつつましさは、他の多くの民族にも言えることですよね。

けれど、ノルマン人と日本人は、そうしたことに飽き足らないとする民族性のためか、規模の大小は違うものの、中世の同じころに外に向かったことがあります。キリスト教の浸透に対する反発がきっかけとされるヴァイキングと、元寇に刺激されたとされる倭寇や朝鮮出兵です。

やがて、ヨーロッパはキリスト教で均一にならされ、ヴァイキング船よりも安定性の増したコグ船が現われて活発化した貿易を担うようになります。ヴァイキングは消退して北欧は内向きの昔に戻り、ルネサンスや大航海時代や産業革命という大きなうねりを直接には受けず、ヨーロッパ列強の植民地獲得競争の脇に置かれ続けました。
極東の日本も、徳川幕府の思い切った政策である長い鎖国を経験することになります。

北欧と日本に似かよっている長い内向きと停滞が、例えば日常品のデザインが共通するところとなって表れているのかも知れません。デザインについては、のちに改めて考えられたらと思います。

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日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅣ 自然との向き合い方について

この記事は「日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!」を下のように分割したものの、そのⅣです。

そのⅠ ある中年カップルとの会話
そのⅡ 自然災害と天然資源
そのⅢ 来た道 似たところと違うところ
そのⅣ 自然との向き合い方について
そのⅤ デザインについて
そのⅥ 世界の目と自身の目
そのⅦ 日本の今の豊かさ 「貿易立国」から「投資立国」へ
そのⅧ なぜ日本は「最高の国ベスト3」に入るのか
そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの
そのⅩ 私の精一杯の提言

そのⅣ 自然との向き合い方について

生活技術の発展が とりわけ北欧へもたらしたもの

ぐっと北に位置して北極圏に近いのですから、もとより北欧の自然には侮れないものがあります。長く、暗く、寒い冬の季節は、ほんの数世代前までは、人々にとって厳しい試練でした。
分厚いドアや二重窓を備えた気密な住居。コックひとつで着火するガスの配管。スイッチ一つで動き出す電化製品と安定した配電。新しい素材で量産の利くさまざまな防寒グッズなど。
これらが行き渡るまでは、炊飯のたびに寒風の中で火を起こさなければならず、洗濯したにしてもガチガチに凍ったまま乾かず、凍えながら眠らなければならない吹雪の夜もあったはずです。             

                                           (SOPIVA) “日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅣ 自然との向き合い方について” の続きを読む

日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅤ デザインについて

この記事は「日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!」を下のように分割したものの、そのⅤです。

そのⅠ ある中年カップルとの会話
そのⅡ 自然災害と天然資源
そのⅢ 来た道 似たところと違うところ
そのⅣ 自然との向き合い方について
そのⅤ デザインについて
そのⅥ 世界の目と自身の目
そのⅦ 日本の今の豊かさ 「貿易立国」から「投資立国」へ
そのⅧ なぜ日本は「最高の国ベスト3」に入るのか
そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの
そのⅩ 私の精一杯の提言

 

そのⅤ デザインについて

北欧の人々にとって、冬の寒さは着々と克服することが出来てきたものなのでしょうが、その長さと暗さはどうにもならないものであったはずです。
朝8時に出かけようとすると、日本の感覚では深夜のような暗さで、夜6時に帰ろうとすると、深夜のような暗さなのです。どう工夫しても、いくらなんでも、23.4度という地球の傾きを替えることはできますまい。

北欧と日本のデザインの似たところ

限られた屋内空間で過ごすことを強要され、太陽と緑を待つこと久しいとすれば、狭い空間をできるだけストレスの少ないようにセッティングする必要があります。それには、ちょうど日本人の感覚のように、自然のエッセンスを身の回りに置いて癒されようとするやり方が有利でしょう。
北欧デザインといえば、椅子、家具、日用品…。
その特徴として、自然素材の活用・エッセンスだけの簡素・朗らかな配色・機能性と耐久性の重視・照明の巧みな演出。
小さな生活の知恵が長い年月をかけて積み上げられたものにちがいありません。
自然のエッセンスを身近に感じたいという基本が共通していますから、北欧のデザインと日本のそれとに似通ったところがあるのは当然のこととも云えましょう。
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日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅥ 世界の目と自身の目 

この記事は「日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!」を下のように分割したものの、そのⅥです。

そのⅠ ある中年カップルとの会話
そのⅡ 自然災害と天然資源
そのⅢ 来た道 似たところと違うところ
そのⅣ 自然との向き合い方について
そのⅤ デザインについて
そのⅥ 世界の目と自身の目
そのⅦ 日本の今の豊かさ 「貿易立国」から「投資立国」へ
そのⅧ なぜ日本は「最高の国ベスト3」に入るのか
そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの
そのⅩ 私の精一杯の提言

そのⅥ 世界の目と自身の目

幸福度ランキング 

自然災害、天然資源、それらとの向き合い方などについて、これまで見てきました。北欧は自然や資源に恵まれており、それらを活用して見事な成果を上げています!

毎年3月に発表される国連の「世界幸福度調査」2020年版によれば、156か国中、1位フィンランド、2位デンマーク、5位ノルウェー、7位スウェーデンと、北欧4国はすべてトップクラスにランクされています。
この調査は、各国の都市の住民に対する質問によるもので、「生活の質や人生の満足度」を主観的に0〜10で評価してもらい、それを、①一人当たりGDP②社会福祉などの社会的支援③健康寿命④人生を選択する自由度⑤他者への寛容さ⑥国や社会への信頼度の6項目で修正して数値化したものです。
北欧の国々は、社会保障など国や地域の社会環境の良さに加え、国や社会に対する信頼度がいずれ劣らずに高く、国民はそれらを自分たちが築いているのだと自負しており、これらがいわゆる幸福度を高めているのだと要約できます。

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